その名は杏奈

女性歌手・タレント 杏奈(あんな)のホームページです。

歌や舞台に活躍している、タレント 杏奈の活動をご紹介しています。

11月

千葉のお父さんお母さんへ

初めてお会いしたのは
千葉の健康センターでしたね。
デビューして3年位経った頃でした。
家族揃って宴会場で私のショーを観てくれました。

歌い終わると、私を席まで呼んでくれて
経営している天ぷら割烹屋さんで
「毎年、お祭りをやるから歌いにおいで」
とお仕事を下さいました。
それから5年位、毎年私を呼んで応援して下さいました。
私の歌がカラオケに初めて入ると
わざわざ配信カラオケを購入してくれて
「毎日かけてるぞ」
と、励ましてくれました。
お母さんも、息子さんも娘さんも家族絡みで応援して下さいました。

事務所を辞めようとしたら、事務所から手紙が届き
「あの子を応援するのはあの子の為になりませんから
もう連絡が来ても応援しないで下さい」
という内容だったのにも関わらず
私を信じて下さいました。
それからも変わらず、何かあれば応援に駆けつけてくださり
浅草ビューホテルでの新曲発表会にも
中野サンプラザにも
お母さんと一緒に応援に足を運んで下さいました。

…突然のお母さんの死。
娘さんからの連絡を受け、病院へ行くと
家族じゃないのに、私を集中治療室で息を引き取った
お母さんと対面させて貰いました。
もちろん、お通夜へも。
お母さんは常日頃、皆んなにこう言ってくれました。
「あの子の歌声を聞けば、すぐあの子の今日の体の調子
が私は分かるんですよ」
実の母より分かっていたと思います。
お母さんが亡くなり、すっかり元気を無くしたお父さん。
それでも、たった一人でサンハトヤのショーに来てくれて、伊東のスナックで私の母や、私の小学校の恩師とカラオケを楽しんだりしてくれました。

娘さんが高知へ嫁ぎ、息子さんも独立し…
本当に一人になったお父さんが
ある日電話をくれました。
「一人になっちゃったよ」って。
お父さん、私、あの日の事を後悔しています。
もっと長くお話ししてあげれば良かったのに。
「娘さんが幸せになったんだから喜ばなきゃ」
そんなありきたりの言葉しか言えなかった。
本当にごめんなさい。

そして…
コロナ禍の中、お父さんの訃報。
お別れもまだ出来ていなくてごめんなさい。

コロナが落ち着いたら、必ず、私の実母と一緒に
お墓参りに行くからね。
待っててね。

本当に本当にありがとう。

杏奈 拝

Oさんへ

初めてお会いしたのは
湯島のピアノバーで
私がデビューして2年位経った頃でしたね。
それから私を歌手と認識して貰うのに
一年位掛かったかもしれません。
お誘いするとライブには必ず来て下さいました。
浅草の焼肉屋さんも沢山ご馳走して下さいましたね。

一番の思い出は
リヤカーで荷物を運ぶ宅配便屋さんが通りかかって
「杏奈さんも継続していけば、そのうちみんな辞めてしまう。だから、歌い続けて希少価値になれば良いのですよ」
と、言われたこと。
そして一番感謝しているのは
スポンサーが突然降り
発売も決まっていたのにも関わらず
資金をどうしようかと
夜も眠れない位悩んでいた時
何も言っていないのに資金を工面して下さった事です。
ビックリして号泣した私に
「その涙にはその位の価値があります」
と、何も要求せず遠くから応援して下さった事です。

そして、今回も一度諦めた私に
また「神の目に耐える行動をしなさい」
と、言って下さいました。
神とは「自分」という事です。
「自分に嘘をつかない人生を生きなさい」
と言って下さいました。
毎日、今日の私は「神の目に耐える行動ができたか」
そう考えながら眠りについています。

杏奈 拝

新曲

ご無沙汰しております。
原宿ラドンナの記事から…
20周年を迎える前に
活動を停止しておりました。

皆さん、お元気ですか?
私は元気じゃない時間が
長く続いていました。
自問自答を繰り返し
新しい自分の居場所を探していました。
例えるなら暗闇の中で。

そして 大型の災害、新型コロナ…
私だけでなく
きっと皆さんも辛い寂しい不安な想いを
沢山抱えていらっしゃる事でしょう。

少しずつですが、光が見え
少しずつ元気を取り戻してきました。
改めて「大切な」ものがわかり
「大切な」ものに感謝の気持ちが溢れてきました。

歌を歌ってきたから
出会えた皆さん

それが私の宝物です。

不義理を繰り返してきた私を深く反省し
本当の笑顔を皆さんと分かち合える日を
信じる事にしました。

これから毎日、皆さんにブログを通して
お手紙を書きます。
来年、新曲を発売します。
それも、皆さんへの感謝の気持ちをお伝え出来るようにします。

本日、東京は雨。
ご自愛ください。
杏奈